どうしても、忘れられない。


あの声。

あの笑顔。

自分にはどうしたって届かない用に思えた、あの







華一片 四





「…遜?陸遜?」

「!」

陸遜は、強く話しかけられて、ようやく自分が呂蒙に話しかけられているのに気がついた。
呂蒙に慌てて謝ると、彼は不思議そうに首を傾げた。

「どうしたんだ?さっきからどうもうわの空のようだが」

体調でも悪いのか?と、呂蒙は心配そうに尋ね、陸遜の顔を覗きこんだ。

「あ、いえ、別に。そういうわけでは」

陸遜は慌てて呂蒙の言葉を否定すると、筆を取り、竹簡にすらすらと文字を書き始める。


何故か、あの日から、あの男の事が頭から離れない。
あの、二人で狩りに出かけた日からは、既に二週間も過ぎているというのに。



甘興覇


陸遜は、ぶるぶると頭を振り、先程から頭からちっとも離れてくれない映像を取り払おうと努力した。


陸遜には、少しもこの理由が理解できなかった。

どうして彼の事が、頭から離れないのだろう?


「陸遜、そこ、字が間違っているぞ」

「え…」

呂蒙が横から覗き込み、陸遜の誤字を指摘する。

「すいません…」

陸遜は申し訳無さそうに息をついた。

すると

大きな手が、上から降ってきて、ふいに、頭を撫でられた。
まるで泣いている子どもをあやすかのように、呂蒙の手は陸遜の頭をゆっくりと撫で、最後に背中を軽くぽふぽふと叩く。陸遜は自分が子供扱いされるのは好きではなかったが、呂蒙の手が自分の頭をゆっくりと撫でられるのを、そんなに嫌だとは思わなかった。
寧ろ、少しだけ心地良いとさえ思う。

そういえば、あの日も甘寧殿にも頭を撫でられたな、と陸遜は思い出した。
でも、甘寧に頭を撫でられた時は、こんな落ち着いた気持ちにはならなかった。
確かあの時は・・

いきなりの事に驚いて、息が出来なくなって。それから。それから。


「今日はもう切り上げような、陸遜」

呂蒙は優しく微笑むと、そう言った。

「い、いけません。ここまでと決めた分は今日中にやってしまわないと・・・」

陸遜はぶるぶるとかぶりを振ったが、呂蒙はハハハ、と笑いを返すのみである。

「まあ、そう根詰めて仕事をやってもな。疲れが溜まる一方だ。いいから今日は休め」

陸遜は自分は一体何をやっているのだろうと思った。仕事もロクにせずに上の空で考えている事といえば他人の事。そしてそれで呂蒙に余計な心配までかけてしまって。
申し訳ない気持ちと自分の歯がゆさに悔しくなる。

自分は、もっと冷静な人間だったはずだ。落ち着け。落ち着け。

「おい、本当に大丈夫か?」

呂蒙は、何も答えない陸遜の事がいよいよ心配になってきたようで、熱でもあるのではないかと、陸遜の額に自分の大きな手のひらをあてた。


その瞬間、陸遜は嗅ぎ慣れない香りを感じた。

「熱はないようだが・・。あまり体調が良くないようなら軍医の所に・・」

「匂い・・」

「え?」

陸遜は思わず口に出してしまっていた。言ってから呂蒙がきょと、とした顔をしている事に気づく。

「あ、すいません。あの、何か変わった匂いがしたものですから・・」

陸遜は正直に自分が感じ取った事を口にする。呂蒙はというと、少し考えてから、ハハハと笑った。

「ああ・・ああ。わかった。香の匂いだろう」

「香?」

少し陸遜は首を傾げる。呂蒙が香を趣味にしているとは知らなかった。
どちらかというと、余りそういったものには興味が無さそうなのにな。と心の中で思う。

「あ、俺の趣味じゃないぞ?」

呂蒙は、陸遜が不思議な表情をしているのを見て言った。そして、にこりと笑った。

「俺の、・・その、妻の趣味でな。部屋にはいつも香を焚いてるんだ」

そう言って呂蒙は俺は自分に女らしい匂いがつくからやめろって言ってるんだがなー。
と決まりの悪そうに言った。


「呂蒙殿の、奥様」

陸遜は、何かを確認するようにポツリと呟いた。そして陸遜は俯き、筆をカタ、と傍らに置く。


「呂蒙殿は、奥様と、お知り合いになられた時、どんな感じだったのですか?」

「へ!?」

流石に陸遜にこんな事を聞かれてしまっては呂蒙も驚いてしまい、ただただ目を白黒とさせた。

「あ。わ。私何かまずい事でも聞いてしまったでしょうか・・・」

陸遜が呂蒙の驚いた顔を見てそう問う。

「驚くも何もなあ・・・。だって・・なあ・・・」

明らかにその声と口調は動揺している。
呂蒙はまさか陸遜がこういった色恋沙汰に興味があるとは露にも思っていなかった。
もちろん陸遜は17歳の健全な少年であるからして、そういった話が出てくるのには何の不思議でも無いはずなのだが。

陸遜だからなあ・・・



陸遜とする話はいつも兵法についてだとか政治についてだったから、陸遜がこういう普通の話(さてこの色恋話と呼ぶものが普通の話と呼べるかどうかはわからないが)をしてくるとは思っても居なかったのである。


「そうだなあ・・・何を話せばいいのやら・・・」

呂蒙が顎に手をやり、返答に困って言葉につまる。

「あ、そんな。ただ、呂蒙殿は奥様を愛していらっしゃるようですから」

「ぶほっ!!!」


そこで呂蒙が盛大に吹いた。陸遜は自分のセリフに何の疑問も持っておらず、ただただ「え、え、呂蒙殿?」と困惑した。

「ま、まあ俺があ、あ、あ、愛してるとかそういうのは置いといてだな・・・」

呂蒙はコホンと一つ咳をする。陸遜は食い入る様に呂蒙を見つめた。

「ま、まあ・・・俺はどうだったかはあまり覚えていないが・・・よく陳腐な表現だが、出会った途端に衝撃が走ったとか言うよなあ・・・」

何故か顔を少しだけ赤らめながら呂蒙は言葉を続ける。

「ああ、俺の知り合いが『笑顔が眩しくて息が出来なくなった』とかよくわからない事を言っていたな。」



笑顔が眩しくて

息が出来ない。

だって?

「ああ、なんだっけな。『君は俺の太陽だ』みたいな歌を作って口説き落としたらしい。女を。俺には理解できんが・・・」



陸遜は、頭の中が真っ白になるのを感じた。
何も考えられず、呂蒙の言葉に、ふさわしい応対をする事も出来ず。
焦ったような困ったような、そんな感情が陸遜を襲った。


まさか、そんな、だって。



「はは。わかったぞ」


呂蒙が、わしわしと大きな手で陸遜の頭を撫でた。
そして、ニヤリと少し意地悪そうな顔で笑った。



「お前、気になる人でも出来たんだな?」






・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・嘘でしょう?




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